義和団事件とは
日清戦争後の西暦1899年から1900年にかけて、生活に困窮した農民を主力に起こった、主にキリスト教徒をターゲットとした排斥・排外運動です。
北清(ほくしん)事変とも言う。
時の清国政府は、この動乱を制圧しないばかりでなく、陰に陽に義和団と同調するありさまであった。
1900年6月、遂に義和団の集団が北京の外国領事館の地域を取り囲み、狭い地域に閉じこもる外国人を襲撃しようとしたが、イギリス・ドイツ・ロシア・アメリカ・フランス、そして日本の守備隊が連合して、籠城戦を連合国側の援軍の到着まで戦い抜いた。
この籠城戦でもっとも中心的な役割を果たしたのが、日本陸軍の北京駐在武官・柴五郎中佐である。
彼の指揮による日本の守備隊の規律の正しさ、勇敢さは列国の称賛をあび、とりわけ籠城中の列国の指導者的立場であったイギリスのマクドナルド在中公使は本国に日本人の素晴らしさを報告し、またイギリスの最大手日刊紙「タイムス」のモリソン特派員のレポートなどが、日英同盟の実現に大きな影響を与えた。
誇るべき日本人 柴五郎
柴五郎は明治の陸軍軍人であるが、1860年、会津若松の士族の五男として生まれた。
1868年、薩長を主体とする討幕軍が会津若松に攻めてきたとき(戊辰戦争)、満八歳の五郎は親戚の別荘に連れられて行っており戦禍を逃れたが、城外の居宅に居た自分の祖母・母・姉妹を中心とする肉親を自害で失い、それが彼が過ごす一生の奥底に、深い影響を与えたようである。
戊辰戦争のあと、会津若松の藩士は今の青森県の半島に追いやられ、辛酸をなめつくす生活を強いられたが、五郎も父親や兄たちと共に、現在の下北半島にある恐山のふもとの田名部という地域に移住した。
そこでの筆舌に尽くしがたい労苦の日々ののち、明治4年になって柴家にも曙光がさして来た。
五郎が選抜されて、学問を習得するために青森県庁に給仕として採用されたのだ。父親はじめ、一家が喜びに満ちたことは、想像に難くないですね。
その後、紆余曲折を経て陸軍士官となり、会津藩出身という、当時としては逆風の真っ只中の中、昇進を重ね、義和団事件のときは駐在武官として北京に駐在していたのである。
司馬遼太郎が生前、旧日本陸軍の体質について、「明治の陸軍と昭和期の陸軍は体質が全く異なる。私は規律が正しく守られた明治の陸軍が好きである。」と、小説「坂の上の雲」の著述の感想などで述べられていたが、柴五郎こそ、その典型的人物ではないでしょうか。
欧米の駐留軍はともすると、軍律もルーズになる中で、柴中佐の率いる日本兵の規律正しさが際立っていたとのことである。
チャールストン・ヘストン主演の映画「北京の55日」は義和団事件がテーマで、アメリカ軍が指揮をとって義和団の侵入を食い止めたと描かれているが、事実は全く異なり、実際の現場ではマクドナルド英国公使が全体を、500人足らずの連合軍の指揮は柴五郎中佐が取っていた。
結び
柴五郎をはじめとする柴家の墓は会津若松市内の恵倫寺(えりんじ)にあり、筆者は昨年、同地を訪れたとき、雨の中であったが地図を頼りに同寺を訪ねました。
恵倫寺は名城鶴ヶ城の南東、約1キロに位置する、16世紀の終わりごろの領主、蒲生氏郷が創建した曹洞宗の寺院である。
寺の住職さまに柴家のお墓が裏山の広大な墓苑にあることを確認させていただいたが、坂道の勾配がかなり急な墓苑であり、柴家のお墓は坂をかなり上った奥の方とお聞きし、ぬかるみのなかでもあり、直接の墓参はできなくとも柴家一族の菩提寺の山門をくぐることができただけで良しとし、ご本尊・観世音菩薩さまを拝んでおいとまをしました。
今回のブログのタイトルは、義和団事件がテーマのため「片隅の世界史」としましたが、誇るべき日本人・柴五郎が主役であり、むしろ「片隅の日本史」と言うべきかもしれません。
明治時代、このような立派な人物が、世界の注目をあびた大事件のなかで、誇らしい働きをされたことを、読者の皆さまとともに、同じ日本人として誇りに思いたいですね。
写真の新書本は、柴五郎が若い日を回想した記録を著した「ある明治人の記録」であり、帯のタイトルの文字通り、涙なくしては読めない実録です。興味のある方は、是非こ一読ください!
ー 終 ー
コメント