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上野をぶらり 「上野東照宮」に参拝 そのあと近くの「アメ横」へ

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地下鉄上野駅から「上野東照宮」へ10分

上野東照宮に参拝する前の晩は、上野田原町のホテル近くにある、庶民的な中華料理店で本場の料理を堪能し、明くる日の朝、地下鉄銀座線で上野に移動。上野公園の一角にある「上野東照宮」に参拝しました。

東照宮とは江戸幕府の開祖、徳川家康を祀る神社の総称で、有名な東照宮として「日光東照宮」「久能山東照宮」がありますが、この二大東照宮と並んで、上野東照宮は日本の三大東照宮に数えられています。
もともと上野公園は、徳川家康公の遺言によって創建された東叡山寛永寺の境内が主体ですが、東照宮はその寛永寺の境内の一角に「東照社」として建てられた神社が始まりです。

上野東照宮は家康からの藤堂高虎と天海僧正への遺言に従い、築城の名手と言われた高虎が1627年に
上野にある自分の敷地内に建立したのがはじまりです。
その後、1651年徳川三代将軍家光が現在の社殿に改築したものです。

ここ上野東照宮には徳川家康だけを祀る日光・久能山と異なり、神君「家康公」と並んで、徳川幕府中興の祖「吉宗公」と幕府最後の将軍「慶喜公」も祀られています。

上野東照宮の詳しい説明は下の
公式ホームページをクリックしてください!

地下鉄銀座線の上野駅から上野公園の方に向かい、方角としては西北西にある東照宮の方向を目指して、公園内の歩道を周囲の木々、建物なども楽しみながら、徒歩でゆっくり20分ほどで写真のような入り口に到着。
入場チケットを500円で購入し、入り口門からは狭い歩道の両側に見事な石灯篭が並ぶ参道を抜けると、正面に金色殿と呼ばれる拝殿(社殿)がどっしりと構えています。

入り口門
上野東照宮拝殿

現在でもきらびやかさを残す社殿は、家光が改築した建物が400年の歳月を経て、そのままのたたずんでいます。
江戸名物と言われた火災にも、また度々の震災、戦禍にも耐え、奇跡的に現存する素晴らしい建造物です。

たびたびの災難にも耐え抜いた強運からか、そしてまた長い坂道を歩いて将軍に上り詰めた家康公を祭っていることからか、ここ上野東照宮は「出世」「勝利」「健康長寿」のご利益があるとされています。

東照宮に参拝のあと アメ横商店街へ

拝殿での参拝を済ませ、帰り道は来た時より西側の、上野公園の西の縁(ふち)を歩く感じで不忍池に向かって歩いた。
すると途中に大勢の人だかりが。
よく見ると上野動物園の入り口で、これから入園と言う人が何百人も並んでいました。

動物園を過ぎると、写真のように池の光景が道の西側に沿って延々と。
この不忍池は蓮の葉で有名ですが、何十万もあろうかと言う蓮の葉が、池一面にところ狭しと蔽いかぶさっていました。

不忍池

不忍の池を右手に見ながら、山手線の高架に向かって歩き、上野公園前の広い交差点を渡ってJRの高架をくぐると、銀座線上野駅のすぐ近くの「アメ横」商店街に入ります。戦後の闇市時代からの商店街で、この日もウィークディの昼間にもかかわらず、まことに賑やかな人出でした。

ところで、近いところでは10年ほど前に、今までに人生で都合二回ほど、ここアメ横に来たことがありましたが、「アメ横」とはハイカラな輸入品を売る商店が多いから、「アメリカ横丁」が正式な名前で、縮めて「アメ横」と呼ぶのだとばかり思っていました。
ところが今回、商店街の路上に掲げた看板(写真右下)で、「アメリカ横丁」ではなく、「アメヤ横丁」が縮まったものと初めて知った次第。お恥ずかしい😅

アメヤ横丁の名前の由来は、戦後の闇市時代、食糧難の時代には貴重な飴類を売る店が軒を並べていたので、商店街の通称をアメヤ横丁と呼ぶようになったと

アメ横は「アメ」は勿論のこと、さまざまな商品を売るお店と、庶民的な食べ物屋さんが上野駅と御徒町駅のあいだに
約400軒がひしめき合う、まことに活気のある商店街です。

この日は、徳川家康公を祭る上野東照宮から、一転して人で賑わうアメ横へと、脈絡のない行き当たりバッタリの上野界隈のお江戸巡りでしたが、結構おもしろく、また一万歩に近い歩数を稼ぎ、とても良い運動になりました。(笑)  

次回の上野は今回は行けなかった、動物園とか鈴本演芸場、そしてアメ横をもっと掘り下げて、ぶらり旅をしてみたいと思います!    

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