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沖縄物語4 近世の偉人(2)「蔡温」は国際人だった

 

前回の羽地朝秀に続いて、朝秀の政策の後継者である蔡温(1682〜1762)について、その人物と思想、そして琉球王朝においての業績を調べてみました。


国際通り・蔡温スクエアのシーサー像

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目次

蔡温の生い立ちと若き日々

1682年、蔡温は那覇の久米村で生れました。久米は渡来中国人の居住地で、蔡温の父親は中国人社会で一番の実力者で、「総役」と言う地位に就いていました。

17世紀の日本社会は江戸幕府による鎖国政策の真っただ中で、外国人が政治に携わることじなど考えられない時代でした。一方、沖縄地方では中国からの帰化人の蔡温が行政者として、現代にも名が残る活躍をみせたわけで、当時の琉球社会の国際性がうかがわれます。

少年期の蔡温は家庭内の問題もあり、反抗的で勉学をしない男子だったようですが、17歳ごろから学問に目覚め、それからは儒教の書物はじめ熱心に学問を修め、中国語の通訳に任命されるなど学識のある人物となりました。まさに努力の人ですね。

1708年、26才の時、現地通訳として中国・福州に赴任し、そこで陽明学を学ぶ機会に恵まれ、陽明学の根本思想である「実学」、すなわち頭の中だけの学問は何の役にも立たず、実際に行動することこそ大事であるとの教えを受け、儒教と合わせて「風水」と呼んだ、現在で言うところの地理学・土木学なども修めて帰国します。

1711年、時の皇太子・尚敬の近習役、すなわち教師を任命され、その翌年1712年に国王尚益の死去にともない尚敬が国王に即位すると同時に、30才で早くも琉球国の指導者として「国師」という特別職に任命されました。

こんなに数々の業績を上げたのだ

蔡温は政治を行うに当たり、占いなど古い慣習にとらわれず、常に実学を重んじた現実的な政策を立案・施行しました。
また、種々の施策を実行するに当たり、薩摩藩との軋轢を避け、羽地朝秀と同じく実利を取る方策を重んじています。
その政治手法はまさに羽地朝秀の後継者ですね。

1728年、46才で政府の最高位である「三司官」に選挙で選ばれます。

 農業の振興
  農民が重税にあえいで農地を放棄しないよう、耕地の永代耕作権を付与したり、それまで曖昧であった土地の所有権を明確にするとともに、農業用水路を整備して生産効率を高める施策を実行しています。
沖縄の水田開拓事業は彼の最も大きな功績の一つと言えます。
また一方、農民の組合組織を編成し、農繁期の共同作業を励行したり、農民同士に共同責任制を持たせて、相互監視により税収安定を図りました。この組合組織は「ゆいまーる」と呼ばれ、現在でも助け合い組織の言葉として残っています。
このように、農民が耕地を棄てて都会に逃避することを厳しく禁じ、同時に農民の暮らしが安心して営まれるように、土木工事など色々な施策も講じて、陽明学に言う「実学」を実践しました。

ゆいまーるとは「ゆい」は結ぶ「まーる」は回る、順番が回るの意味で、お互いに助け合って順番に、共同扶助を行うと言う意味です

 山林の整備
  森林資源の保護と、森林の整備による洪水など水害の防止に努めました。植林事業も積極的に行い、木材の無用な使用を禁止するなど、森林保護に努めています。

 王室財政の立て直し
  具体的には特産品のウコンや黒糖を王府の専売制とした政策を強化しました。
もちろん、上記の農業施策に伴う税収の増加は、一番の財政再建策となったと言えましょう。

政敵とのあつれきにも動ぜず

農民の身分制の固定など、ある意味、強権発動的な蔡温の政治手法に対する不満・批判も当然生じました。
一番の事件は三司官として活動していた1734年、蔡温に反感を抱く学者の平敷屋朝敏(ひらしきやちょうびん)らにより、那覇に駐在する薩摩藩に蔡温による王政への批判書を投書した件です。
しかし薩摩藩はこれに取り合うことなく、蔡温を強く擁護しました。

この事件でも明らかなように、羽地朝秀と同様に薩摩藩と協調することにより、琉球王朝の安泰を図る蔡温の政治路線により、尚王朝は19世紀後半の明治時代まで、安定した治世を継続できたと言えます。

人々への熱心な教育も

実学を重んじた蔡温ですが、同時に役人・庶民に対しても道徳心の向上などの視点で多くの著作を著わしました。
おもな著作として、
役人から農民に至るまでの生活改善への道徳心の向上を訴える「ご教条」、農業政策を著わした「農務帳」、山林管理の「杣山法式」、家内(親族間)の道徳規範を説いた「家内物語」、「自叙伝」など数多くありますが、残念なことに先の大戦で貴重な書物の多くが損失されたようです。

80才まで長生きした蔡温

種々の業績をあげた蔡温ですが、1752年に長年にわたって使えて来た尚敬王が亡くなられたあと、政治の世界から引退することを申し出でましたが、薩摩藩は彼の引退を承知せず、激務である三司官の職は解かれたものの最高指導者として権威を残されました。
如何に蔡温に対する信頼が厚いか、よく分かりますね。

それから10年後の1762年、当時としてはとても長寿の80才まで生きながらえました。
その業績と、先祖を敬うなど儒教的思想は現在の沖縄社会にも延々と引き継がれており、渡来人の子孫でありながら近世琉球国の最大の偉人。まさに当時の国際色ゆたかな当時の沖縄の象徴とも言えます。

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